多文化「共存」にとどまるバンクーバーと、新たな「消極的排除」

 

母文化アイデンティティを育む場

この「バンクーバー聖ミカエル多文化教会(St. Michael’s Multicultural Anglican Church)」は、もともと白人カナダ人が信徒の大半を占める教会だったそうです。しかし、20年ほど前からフィリピン人の移民が集まり始め、今では9割方がフィリピン人が占めています。一応「多文化教会」を標榜していますが。

 

まぁそれで幾らか摩擦も起きているようですが(率直に言えば「フィリピン人に教会を占領された」と感じる白人信徒もいるということ)、しかし結果的にフィリピン人移民が集まり、そのコミュニティを育んでいくことができているのであれば、この教会が果たしている役割は小さくないと思います。

 

「文化」において、「言語」と「宗教」は欠かすことのできない要素です。したがって、自分の母語で、自分の属する宗教の儀式を行ったりそのコミュニティに参画していくことは、文化的なアイデンティティを育てる(母文化を保持する)うえで重要な役割を果たし得るでしょう。

 

日本の外国人集住地域にも多くのキリスト教会が“雨後の筍のごとく”建てられています。しかし、外国人であるがゆえに(これは明確な差別ですが)テナントを借りることができなかったり、公共の場を礼拝に使おうとして断られたり(これは日本の制度上しかたない)、そのハードルは低くありません。

 

可能であれば、日本の既存の教会がその場を提供する度量の広さを見せてもらいたいものだと思います。日本の教会は概ね「信徒の減少」が喫緊かつ最重要の課題でしょうから、win-winの関係を築くこともできるでしょう。

 

異文化の受容が「新たな排除」を生む

しかし、このバンクーバー聖ミカエル多文化教会のように、フィリピン人会衆を受け入れたことで白人信徒が減っていった(もともと減少傾向にあったのでそうとも言い切れないようですが、一因ではあると言える)という例もあります。

さらに言えば、この教会のメンバーはほとんどが「イゴロット」というフィリピン北部出身者です。同じフィリピン出身者でも、中部(タガログ)・南部(ビサヤ)の人たちはほとんどいません。

異文化の受容は、もともと異文化(マイノリティ)であった人たちが数の上でのマジョリティになると、少数になった人たちに「入りにくさ」を感じさせるようになっていきます。表面上はいかにWELCOMEな雰囲気を出していても、やはりマジョリティ同士が自分たちだけの分かる言語で話してしまえば、マイノリティの人は疎外感をもつこととなります。それは好むと好まざるとにかかわらず、自然と起こってしまう言わば「消極的」排除の構造です。

 

「多文化共存」することはできても、「多文化共生」、つまり多様な文化的背景をもつ人が互いに交わり合い、認め合いながら社会を運営していくということは容易ではありません。この多文化社会のカナダでさえも。

 

バンクーバーはトロントやNYより多文化が「共生」していない?

ルームメイトのアメリカ人と話していた時のこと。彼が友人から聞いたという話ではありますが、こんなことを言っていました。

「バンクーバーはトロントやNYより、それぞれの民族がバラバラに暮らしている印象を受ける。」

トロントやNYでは、同じアパートにアジア系もヨーロッパ系もアフリカ系も、みんな一緒くたに住んでいることが普通だそうです。一方、バンクーバーは中国人街をはじめ、フィリピン人集住地域、インド系集住地域、シーク教徒(ターバンを巻いている)の集住地区、イタリア人街、旧日本人街など、人種・民族によって比較的別々に暮らしている印象を受けるというのです。

私がバンクーバーに来て驚いたのは、その人種の多様さと、それが当たり前のこととされている街の雰囲気でした。しかし、上の話では、それでもバラバラだと感じられるとのこと。

 

トロントやニューヨークはどのような感覚で多様な人々が「共存」しているのか、あるいは「共生」と呼べる領域にまで達しているのか、ぜひ見てみたいと思います。