たとえ譲れなくとも出会ってみれば? LGBTQ・同性婚のことで分裂したカナダの聖公会、そして私の友人たち。

2つの聖公会と出会う

聖公会という、英国国教会の流れをくむキリスト教の教会組織がある。世界的な広がりをもち、信徒は世界中に8500万人。カナダにも多くの教会がある。

 

 

私はカナダ・バンクーバーに住むことになってから、現地のネット掲示板を使って適当にシェアハウスを探した。

一番初めに内覧に行った所が気に入ったので、すぐ入居を決めた。

そこで偶然ルームメイトになったのが、聖公会の教会に通いながら神学と哲学を修め、間もなくPhDをとるという友人Tだった。

 

しかし、カナダの聖公会は、LGBTQ(同性婚・同性愛)への神学的理解の違いから、大きく2つに別れてしまった歴史をもつ。歴史と言ってもこの10年ほど、比較的最近の話である。

 

私はカナダに渡ってきてからずっと、同性婚を認める側の聖公会(ACoC、ただしここでは便宜上「リベラル」と呼ぶ)の方々から大変お世話になってきた。旧知の方もいて、親しみを覚えている。

 

一方、ルームメイトになったTが属する教会は、男女間の婚姻のみを認める側の聖公会(ANiC、ただしここでは便宜上「オーソドックス」と呼ぶ)。

 

偶然ながら、どちらの空気も味わえることがおもしろく、両方の教会につながる人々と関わる機会が増えていった。

 

オーソドックスの教会からのつながり

ルームメイトのTが、教会でつながる友人を次々と紹介してくれている。

 

友人Tの通う教会。かなり大きい。

 

そして、その友人たちが毎週定期的に開く集まりに参加させてもらって、そこでまた多くの友だちができた。そのうちの一組の夫婦の家にお邪魔して集まり、夕食までご馳走してもらっている。

 

 

おしゃれな家。

 

Tの誕生日には我々の家にみんなが来て、バースデー・パーティーを開いた。

 

また、友人Aは、子どものころ宣教師の親に連れられて日本に来て、数年間住んでいたことがあり、日本語がしゃべれる。その彼と最近よくいっしょに遊ぶようになった。

 

Tのおかげで、このオーソドックスの教会を通して、大切な友だちをたくさん得ることができている。

 

リベラルの教会からのつながり

一方、リベラルの教会の方では、旧知のD先生が、日本や韓国からカナダに来て暮らしている人たちとのつながりを次々と創ってくださった。

 

D先生の教会。日系人の信徒が多い。

 

毎週木曜日には教会で日本人・韓国人を主な対象とした英会話クラスを始め、そこにワーキングホリデー・メイカーの人たちが次々やってきていて、おもしろい出会いがたくさん生まれた。

 

さらに、私が前職で深く関わった「フィリピン出身者」が多い教会もあって、タガログ語をはじめとしたフィリピンの地方言語が聞こえてきて懐かしさをおぼえ、しばしば通うようになった。

 

フィリピン系の信徒が多い多文化教会。

 

この教会に勤める日本出身のMさんとは初対面ながら共通点が非常に多く、考え方も似たところがあって意気投合し、よく会って話し込んでいる。

出会ってみればいいのでは?

何が言いたいかというと、どちらの教会からつながった友人もみんな“いいやつ”ばかりだったということだ。(年上の人も多いけれど、親しみを込めて。)

 

「人類みなきょうだい、仲良くしよう」とかそういうことではない。・・そういうことではないと言いながら、そういうことかもしれない。

 

私自身は同性婚に賛成だし、LGBTQの人たちに痛みを与える社会のあり方を変えたいとも思っている。

あまりこういう分け方をしてもしょうがないかもしれないが、「リベラルかオーソドックスか」で言えば、スーパーリベラルだと思う。

 

 

ある日、オーソドックス教会に属するルームメイトTと深夜までそのことを深く語った。Tの神学大学院での研究テーマは「希望」である。

私は彼に「LGBTQの人にとっての教会における希望とはなにか」と問うた。彼は答えた。「同性婚を教会が認めることはできないと考えるけれど、教会はLGBTQの方々の存在はありのまま歓迎すべきだとも思う。」

 

 

 

私が分裂してしまった両教会の橋渡し役になろうということではない。(なれるわけでもない。)

しかし、せっかくできた両方の友人たちが出会う場があったら、それは双方にとって楽しいこと、幸せなことではないのだろうか?

少なくとも私にとってはおもしろいことである。

 

そんな話をそれぞれの教会の人たちにすると、「いいねー!」と言ってくれる人もいれば、表情に少し緊張が走るような人もいる。

 

確かに同性婚の問題は非常に大きい。信仰上そこは譲れないという人たちの気持ちも、LGBTQ当事者の人たちの苦しみも、それぞれ人生がかかったものだ。大袈裟ではなく。

 

しかしまぁそれでも、イデオロギー如何はひとまずおいておいて、とにかく出会ってみればいいのではないか。

 

自分のことを省みても、スーパーリベラルだの左巻きだのという人間が、ネトウヨやヘイトを撒き散らす人たちと一つの場を共有することができるかと言えば、それはわからない。無理かもしれない。無理かもしれないけれど、実はどこか興味があったりもする。

 

 

場に寒い空気が流れて終わるだけ、あるいは当たり障りないスマイルと握手で凌ぐだけになる気もするけれど、とりあえず場を設けてみようかと思う。