旧・日本人街の歴史 〈2015年バンクーバー訪問時の記録①〉

2015年8月にバンクーバーを訪れた際の記録です。

旧・日本人街と日系移民コミュニティ

バンクーバー中心部から1kmほど東に行ったダウンタウン・イーストサイドと呼ばれる地域は、1890年代から1900年代にかけて、日本人街(Japan Town)として大変栄えていたそうです。

日本からの移民が多く店を開き、商売を展開していました。そこには日系コミュニティが作られ、学校(日本国民学校)などが設立されました。

 

 

上記の学校のうち、1928年に設立されたものが現存しています。

なお、この建物は現在デイケアセンター(保育所)として用いられており、2000年、隣に「バンクーバー日本語学校」が建設されました。

 

 

通りに設置されている看板には、こう書かれています。

 

 

1906年、日系コミュニティーがパウエル街に発展するに従い、日本移民たちは8,000ドルを集め、日本語と、その他の科目、算数や歴史・理科などを教えるために学校を建設した。

年に1回、学校の運動場で華やかな運動会が催され、バンドや応援、沢山の賞品があった。

– 是水 重太郎

 

 

 

1941年12月7日、パールハーバーが攻撃されるとカナダは日本に宣戦布告した。

1942年に、人種差別と政治的、経済的ご都合主義の影響で、BC(ブリティッシュ・コロンビア)州の2万2千人近くの日系人が家を追われ、いろいろな収容所へ送られた。およそその半数がパウエル・ストリート一帯の住民だった。

家族離ればなれになり、住宅・所有物・ビジネスは、カナダ政府により、許可なく没収・売却された。日系カナダ人は戦時居住制限が解除される1949年まで自由に移動できなかった。

 

 

 

 

1953年5月、日本語学校が日系コミュニティーに返還され、盛大な記念祝賀が催された。戦前に日系カナダ人が所有していた土地・建物の、唯一返還されたものであり、継承と気概の象徴となった。

「建物に使われている1枚のタイル、1枚の板、1俵のセメント、1本の釘にいたるまで、日系移民の汗と苦労の象徴であった…」

– 佐藤 伝、校長

 

 

しかし、居住制限解除後にバンクーバーに戻ってきた日系人たちは、ほとんど全てのものが失われていたため、同じ所に戻った人は少なかったそうです。

そして、こうした出来事があったことを、今の若いカナダ人の中には、知らない人も多いとのことです。

この話をしてくださったマシュー司祭は、「過去を学ばない者は、同じ過ちを繰り返すものです。」とおっしゃっていました。

 

日系人プロ野球チーム「バンクーバー朝日軍」

同じ通りにあるオッペンハイマー公園の野球用バックネットフェンスには、 「Asahi」のロゴが掲げられていました。1914-1941年に活躍した日系人プロ野球チーム「バンクーバー朝日軍」の本拠だったようです。

 

 

傍には、カナダ政府が建てた碑があり、「朝日軍は、第二次世界大戦中に行われた強制収容の歴史における、日系カナダ人による平等と尊厳回復の為の闘いの象徴であり、未来の世代に向けた示唆を遺している。」と書かれていました。

 

(この物語を描いた映画『バンクーバーの朝日』が2014年に日本で公開されました。)

 

 

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