2017年8月31日、現役でプレーするイチローを見るために、アメリカ・フロリダ州マイアミ市のマーリンズ・パークを訪れた。
この日は代打による1打席だけの出場で、結果はレフトフライ。
しかし、たとえ凡打であったとしても、いまだその「悔しさ」に向き合い続けているイチローの姿をみて励まされた。
イチローの神戸時代と阪神淡路大震災
イチローのプロ野球デビューは、1992年。
そして2年後の1994年、210安打を放って首位打者を獲得し、スーパースターになった。
私が小学3年生だった頃だ。
その年が明けてすぐ、1995年1月17日。
阪神淡路大震災が起こった。
当時イチローの所属していたオリックス・ブルーウェーブは、兵庫県神戸市を本拠にしていた。
そしてその隣町が私の故郷だった。どちらも「被災地」と呼ばれた。
同年、オリックス・ブルーウェーブはユニフォームの袖に「がんばろう神戸!」と記し、
被災者に向けて、復興への励ましと連帯のメッセージを発した。
そして、パ・リーグを制覇し、日本一になった。
イチローは、最優秀選手に選ばれた。
しかしその時の私の記憶は、今となっては断片的に残るだけで、
どちらかと言えば私にとっては「歴史」上の出来事に近い印象さえ抱く。
今も打席に立ち続けているイチロー
それから22年、プロ入りしてからの通算は26年目の今年。
イチローは今なお、打席に立っていた。
私が物心ついてから現在に至るまでのほとんどのあいだ、イチローは打席に立ち続けてきたことになる。
そしてもちろん打席に立っただけではなく、丁寧に準備し、挑み、失敗したらその悔しさと向き合って修正をし、また挑む。
それを、記憶も薄れてしまうような26年前から繰り返し、世界中で誰もなし得なかった偉業を成し遂げてきた。
ヤンキース時代の同僚ジーターも舌を巻いた、イチローの寸分たがわぬ打席前のルーティン
悔しい思いと向き合ってきた事実
彼が日米通算4000本安打を達成した時、インタビューに答えてこんなことを言っていた。
「誇れることがあるとすると、4000のヒットを打つには、僕の数字で言うと、8000回以上は悔しい思いをしてきているんですよね。それと常に、自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思いますね」
それから数年たったこの日までに、イチローが積み重ねてきた「悔しい思い」は、実に9115回にのぼっていた。
そして、この打席。
動画で見ていただければと思う。
結果はレフトフライ、凡退だった。
もちろん、私はヒットが見たかった。
可能なら、全力疾走の内野安打や、長打も見てみたかった。
しかし、実際に私が目にしたのは、9116回目の悔しさを味わう姿だった。
何かのゲン担ぎかもしれないが、1塁手前からベンチへと引き返してくる途中、3塁線を右足ですこし強く踏んでいた。
それは「感情を押し殺してプレーする」ことを信条とするイチローが見せた、ささやかな「悔しさ」だったのかもしれない。
この瞬間にはもう、なぜ凡退したのかの緻密で地道な分析と、次の打席に向けた準備が始まっていたのだと思う。
今はピンチヒッターという役割のため、打席は基本的に1日1回しかまわってこない。
ときには打席に立たない日さえある。
あるいは逆にヒットを打つ日やファーボールの日もあるだろう。
したがって、今や「凡退をする悔しさ」を味わうことさえ、1日1回あるかどうか。
しかし、そのチャンスが少ないからこそ、なおさら今も真摯に向き合い続け、そしてそのことをイチローは「誇り」に思っているのではないだろうか。
少なくとも私は、その1回を噛み締めているような51番のユニフォーム姿に、強く励まされた。
きっと明日もまた丁寧な準備をして、試合に臨むのだろう。
明後日も、そして来年も。
次のシーズン、マイアミに残れるかどうかは分からない。
契約が打ち切られる可能性もある。
しかし、もしイチローが来年も現役を続けることができたとしたら、徹底した準備をして再び打席に立つその姿をもう1度見てみたい。
そしてもちろん、次はヒットを打ってくれることを楽しみにしている。
阪神大震災の前から始まって、もう1万回近くにまで積み重なった「悔しい思い」を力に変えて。